寝ている間に父になっていました。お医者さんの予言のとおり、女の子でした。

予定日の0時に破水する几帳面さは、日々定時に退勤する私の遺伝子でしょうか。ともかく、予定日の朝起きたら産まれていました。そういうわけで、約1週間ほど東京に滞在し、午前中はオフィスで勤務、午後は妻子を見舞いに病院へという生活をさせていただきました。

久々のオフィスはなかなかに新鮮でした。チャットツールを使えばタイムラグもなく同僚とやり取りできると言っても、聞きたいことがあるときに相手の様子を見ながら口頭でサクッと済ませることができるのはやっぱり良いものです。人に会うがゆえに毎日ヒゲを剃らなくてはならないのが少々面倒なくらいでしょうか。しかし、ちょいちょいウーパールーパーがいるのはどうしたことか。流行っているのでしょうか。でなければ、川津のしわざに違いありません。

案の定、川津のしわざだった
他人のディスプレイにも進出していた

 

ところで、父親が親としての自覚を持つようになるのは母よりもだいぶ遅い、というのはまったくそのとおりでした。愛や情がその対象と過ごした時間、その対象のことを考えていた時間で決まるのだとすれば、妊娠から出産に至るまで四六時中一緒にいた母親に敵わないのは当然です。それに加えて、私には「期待を抑圧する考え方」が染み付いていたのがいけません。期待して叶わなければ深く傷つきます。産まれる前から「産まれたらアレをしたい、コレをしたい」と考えて、万一無事に産まれてこなかったら・・・そんな恐れからか、手続的な話を除けば、産まれてくる娘のことを意識的に考えないようにしてきたのです。そうやってブレーキをかけることが癖になっている人間が、いざ産まれてきたときに気持ちが追いつかないのは当然のことなのかもしれません。

 

私の喜びは今のところ、「娘の誕生を喜ぶ妻や両親を見て嬉しい」といったように、他人から伝播してくる間接的なものが中心です。これがやがて自分の喜びに変わっていくのは、母子がこちらに戻ってきて、一緒の生活で苦楽を共にしてからになるのでしょう。私の感情はいつだって尻上がりでしたから。

なお、名前については、「人生には辛いことだらけだけれども、嬉しいことをたくさん見つけるようにしてほしい」というわけで「多喜」を提案したものの却下され、別の名前になりました。もちろん乙子(おとこ)でも結子(むすこ)でもありません。結芽(むすめ)でもありません。ご安心ください。