東日本大震災から6年ですね。あの日私は父の手術を翌日に控え、地元の病院に来ておりました。地震の知らせが伝わると、テレビのあるロビーには、医師や看護師、患者さん、そのご家族の方々が次々に集まってきました。画面には東北の沿岸地域を襲う津波の映像。皆不安げな表情で見入っていました。

「これからどうなるんやろうね」

隣に立っていた若い看護師さんがだれにともなく呟いたのを覚えています。


見舞いを終えてバス停でバスを待っていると、同じくご家族の見舞いを終えたのだという初老の女性が声をかけてきました。

「ねえ、ロビーのテレビ見た? あの津波・・・」

あの日は皆大きな不安に襲われ、戸惑い、とにかく話をする相手が欲しかったのだと思います。私もそうでしたし、その女性もそうだったのでしょう。やってきたバスに乗り込んだ我々は、携帯のニュースを見ながら会話を続けました。

「・・・には・・・メートルの津波がきたって」
「東京タワーの先端が曲がったと」
「・・・のタンクが燃えとるらしいですよ」

そんな会話を交わしたのを覚えています。バスにはたくさんの乗客がいましたが、一人降り、二人降りて、やがて車内には我々二人だけになりました。そしてバスが赤信号で停車したときのことです。

「ねえ、お客さん達、いったい何の話してはるん?」

バスの運転手さんが後ろを振り返り、私たちに話しかけてきたのです。

「あなた、まだ知らないの!? 地震と津波でもう大変なことになっとるんよ」
「えっ。いや、実は、お客さんたちが東京タワーが曲がったとか話してはるから、もしかしたら映画の話か何かかとも思ったんやけど、何かようすがおかしかったから」

女性が東北で大きな地震があったこと、神戸のときよりも酷いかもしれないことなどを説明すると、運転手さんは「ほんとに? ほんとに?」と顔色を変えていました。

「僕、この乗務で今日は最後なんで、終わったらすぐテレビ見ますわ、教えてくれてありがとう」

そこで青信号になり、バスはまた動き出しました。私はその先のバス停で降り、別れ際に女性と「この先日本がどうなっても、お互い頑張りましょう」といった意味の前向きな言葉を交わしました。

 

その夜は一晩中テレビを付けていましたが、津波火災で燃える気仙沼の街のようすに、この世の終わりというものがあったらこういう風景なのかもしれないと思ったのを覚えています。

これがハリーの震災の日の思い出です。そのほかにも、執刀医が急遽東北に派遣され手術が延期されたこと(父の入院している病院は災害協定を結んでいる病院でした)、当時の弊社社長が帰宅難民となり、自宅に辿り着けたのは二日後だったこと、会社に海外の取引先から続々と暖かいメッセージが寄せられ、一様に「大丈夫か、いま頼んでいる仕事も納期など気にしなくてよい」と言ってくれたこと。あの頃のことは、直接の当事者ではない私もはっきりと覚えています。

今夜はせめて、亡くなった方々の冥福を祈るとともに、まだ見つかっていない方々のご家族の心に寄り添いたいと思います。