以前、新宿の喫茶店で知人と雑談していたときのこと、オフの使い方についての話になった。私が観劇にはまり毎週のように観に行っているという話をしたところ、知人は、

「それじゃあ、突然、訳者から役者への転身を図ったりしてね」

と冗談を言った。

「いやいや、自分は翻訳一筋ですよ。役者には来世でなります。来世で」

と私も軽口で応じたのだが、そのときふと、むかしラオスで出会ったある少女のことを思い出した。彼女はことあるごとに言っていた、「また、来世ね」と。 (社長のハリー)

 

10年ほど前の夏、大好きな東南アジアをバックパックひとつで旅した。タイのバンコクから列車で東部国境の町へ行き、歩いてラオス南部に抜けた。世界遺産に選ばれているワット・プーという古代寺院の周辺で数日過ごしたあと、バスを乗り継いでメコン川沿いを北上、首都ヴィエンチャンを経てルアンパバーンを訪れた。ルアンパバーンは世界遺産に登録されている古都で、仏閣や遺跡の多い、落ち着いた佇まいの街だった。似た日本の街はと問われれば、奈良だろうか。かつて王都が置かれたという歴史も似ている。しかし規模は日本の街とは比べるべくもなく、外国人観光客が多いといっても、夜の9時を過ぎれば目抜き通りの 人影もまばらになるような街だった。

そんなルアンパバーンは、夜になると街の中心部でモン族の市がたった。通りの中央と両端にずらりとござが敷かれ、土産ものにちょうど良さそうな伝統織物やアクセサリー、紙製の灯篭、金属細工などが並べられた。外界から隔絶されたラオス奥地の、黒よりも黒い闇の中にあって、白熱電球の灯りが照らしだすその市の風景は幻想的ですらあった。

立ち並ぶ露店の一つに、日本語を上手に喋る少女がいた。年は14、5歳だったか。モン族の村から毎日商品を売りに来ているという。会話の中に諺を織り込むくらい巧みに日本語を操る少女だった。聞くと、研究でラオスを訪れた日本の大学教授から教えてもらったという。彼女の露店には、ルアンパバーンを訪れる日本人バックパッカーたちが毎夜毎夜集まって来ていた。そこで日本の話をしたり、簡単なラオ語を教えてもらったり、集った旅行者同士で安宿や街の情報を交換したりと、日本人バックパッカーのちょっとした出会いの場となっていた。ラオスの少数民族の少女が日本語を喋るというもの珍しさもあったのだろうが、彼女の人柄に因るところが大きかったように思う。物怖じしない朗らかな性格。どこか日本人に似た謙虚さと、垣間見える芯の強さ。アジアを旅しているとだんだんうんざりしてくる、物売りたちの押しの強さといったものもない。私たち旅行者は毎夜毎夜、示し合わせたように彼女の「店」に集まっていた。

ところで、旅行者たちの中にひとり真剣にラオ語を学んでいる若者がいた。ルアンパバーンに夏の間滞在して、毎日ラオ語を教えてもらっているのだという。ある日彼が少女の住む村に行こうと言い出した。私たち(5、6人だったか)はレンタサイクル屋で古い自転車を借り、ルアンパバーンの街中を抜けて、モン族の村を目指すことにした。舗装された山道を1時間は走っただろうか。生えている植物こそ違うが、日本の田舎の風景と変わりはない。外国人たちが汗みずくになって自転車を漕いでいる姿がさぞ珍しかったのだろう、地元民が無遠慮な視線を投げかけてきたり、子供たちが笑顔で手を振ってきたりした。私たちはそれに応えながら、ペダルを漕ぎ続けた。

森の中にあるモン族の村は、家が10数軒ほどしかない小さな集落だった。どの小屋も茅葺きの屋根に板壁という簡素な作りで、靴を脱いで上がる部屋といったものはなく、基本的に土間での生活。電気は使えるようだったが、ガスや水道は通っていなかったのではないか。私たちは少女とその友人たちを囲み、家族のことやモン族の生活についてあれこれ質問した。ここでも一番熱心だったのは例の若者で、真剣な表情でこまめにメモを取っていた。彼女の話によると、実の母親は彼女が幼い頃に亡くなり、継母に育てられたそうだ。子供が多いうえに生活が貧しいため、年長の彼女が弟妹の面倒をみ、モン族伝統の模様を付けた小物を作って毎晩マーケットで売っているのだという。学校へは行かないのか、という私たちの質問に対して、彼女は「弟も妹も小さいし、継母も病気がちだから、難しいね。学校へ行くのは・・・また来世ね」と答えた。

モン族の村を訪問した次の日、私たちは彼女とその友人を食事に誘った。村を案内してくれたことへのお礼の気持ちもあり、貧乏バックパッカーである私たちにしては珍しく、高いテーブルやイスのあるきちんとしたレストランを選んだ。席に着くと、すぐに綺麗なメニューブックと蒸留された水が運ばれてきた。私たちは少女らに何でも好きなものを頼みなよと勧めたのだが、みな妙にもじもじして、歯切れが悪い。いつまでたってもメニューを眺めているだけで、決して自分たちから注文を出さない。その姿を見てはたと気がついた。そうか、彼女たちは普段こういう店に来る機会がないのだ。考えてみれば当たり前のことである。彼女たちが一日かけて作る布製品は、市で1ドルにしかならない。それに引き換え、このレストランの料理はどれも数ドルはする高級品。お礼のつもりだったのに、逆に居心地の悪い思いをさせてしまった。貧乏バックパッカーを気取っている「裕福な」私たち日本人と少女らの間には、目には見えないものの、確かにくっきりした線が引かれているのだと思い出させられた。

ところで、その食事の席で旅仲間の一人が何気なく尋ねた。

「そんなに日本語をうまく話せるのだから、日本に行ってみたいと思わない?」

すると少女は遠くを見るような目をして、

「もちろん行きたいけれど・・そんなお金はないし、また来世ね」

と答えたのである。その言葉を聞いて、口には出さなかったけれど、私たち旅行者は一様にやるせない気持ちになったのだと思う。みな慌てたように

「旅費くらい俺たちがカンパしてやるよ」

「そうだそうだ」

「俺らが少しずつ出し合えば余裕だよね」

「余裕余裕」

と非現実的なことをまくしたてたのである。すると少女は視線を泳がせながら、

「日本には、悪いことを考えている人もたくさんいるというし・・・怖いし・・・また来世ね」

と答えた。

そうだ、アジアの貧しい人々を騙して日本に連れてゆき、違法に働かせるような日本人がいるのはおそらく事実だ。そしてその場にいる私たち旅行者も紛れもない日本人であった。少女は私たちのことを人買いの類とは考えていなかっただろうが、それでもその口調からは「余所者の日本人の言葉を心から信じることはできない」という思いが滲み出ているような気がした。そのとき、私たちは彼女たちの貧しさを思い、何処にも逃げ出すことのできない閉塞感のようなものに息が詰まる思いだった。その場の会話は、そんな閉塞感を押しやるように、密度の薄いたわいもないものへと流れていった。

 

新宿の喫茶店でのたわいない雑談の中で「来世で」という言葉がふいに口を突いて出たのであるが、そのおかげで、私の思いはあのラオスの古都の街角を漂うことになった。モン族のあの少女たちももう大人になっただろうが、まだあの通りで旅行者相手に小物を売っているだろうか。巧みに日本語を操り、日本人旅行者たちの相手をしてくれているだろうか。私は来世の存在を無条件に信じられるほど若くも年取ってもいないが、彼女たちが思うとおりに生きられる次の世があってもいいのではないかと、祈りにも似た気持ちで思ったのだった。