Twitterで植物の写真ばかり撮っていることからも大体わかるとおり、川津は昔から植物好きです。自然豊かとはいえない場所でも、道端の草や街路樹などを見てそこそこ楽しめます。

特に面白いのが、建物が取り壊された後の空地。塞ぐもののなくなった地面に雑草が次々と現れます。立ち入り禁止になっていては仕方ありませんが、それなりに放置された空地もあり、そんなところを歩くと色々な発見があります。

大体の場合、見つかるのは周辺に生えている植物です。ただ、アスファルトがなく、土も解体作業によって多少ほぐされ、日当たりも良くなるためか、路傍に生えている同種よりも大きく育つようです。
ときどき、建物の所有者が育てていた観葉植物が残っていたりもします。彼らが雑草と一緒に日を浴びている姿を見ると、あるはずのない光景を見ているような、不思議な気分になります。

さて、そんな空地ですが、あまり草がはびこると後の工事に支障をきたすので、いずれ草むしりが行われます。昨日は青々としていた空き地に今日は何もないなどの事態はしょっちゅうです。理由があるとはいえ、一抹の寂しさを感じずにはいられないのですが、しかし今年に入って2度ほど、面白い事態が発生しました。

1度目は、近所の民家の解体跡でのことでした。
ちょうど草むしりが行われた後のこと。草地から更地に逆戻りしたこの区画に、たった2株だけ、人の手による徹底的な駆除を掻い潜った植物があったのです。
それは、ミニトマトと青ジソでした。庭で育てられていたのでしょう。どちらもかなり大きな株で、ミニトマトは赤や黄色の実をつけ、青ジソは近寄るだけで分かるシソの香りをまき散らしていました。結果だけ見れば、彼らは人による淘汰を潜り抜け、強健な雑草をも差し置いて、この区画における勝者となっていたのです。

2度目は、その近くの空き地でのこと。ここは利用方法がちょっと思いつかないくらい細長い区画で、長いこと雑草が生えるがままにされていました。
実は私は、ここに小さな斑入りアロエを遊び半分で植えていました。先ほどの民家の解体跡に、おそらく家主が育てていたと思われる、小さな斑入りアロエの集合体がばらばらに別れて地面に落ちていて、それが勿体ないと思ったのです。この区画なら家が建つこともないし、比較的長期間抜かれずに残るだろうと思いました。
小さいアロエは順調に根付き、そして数か月が経過。
ある日様子を見に行くと、その細い区画は久しぶりに除草されていました。丈高い雑草から、地を這う雑草まで、ていねいに余さず摘み取ってあります。ところが、小さな斑入りアロエだけは堂々と残ったままでした。

一体何だというのでしょうか。これはとても面白い出来事だと私は思います。
草むしりをした人は、専門の方なのかそうでないのかは不明ですが、何を思って「他のすべてを抜き、これらだけを残した」のか。残す必要などありません。いずれ土地利用をするときに必ず除去されるはずだからです。

おそらく、フワっとした理由なのでしょう。知っているから/勿体ないから/綺麗だから、くらいの。ミニトマトと青ジソは、ちょっと植物に疎い人でも野菜だとわかる状態でしたし、また斑入りアロエは、観葉植物だけあって、雑草とは明らかに違う見た目をしていました。

しかしこれを、一切の経緯や事情を無視して、純粋に自然下での生存競争として見れば、野菜や観葉植物が持つ「人間の選択圧に対する圧倒的な強さ」に驚かずにはいられませんでした。人間はおやさいに手玉に取られ、おいしくもないアロエに懐柔されたのです。
「家畜は人間の役に立つことで繁栄している」的な(自分としては賛成も反対もしかねる)考え方がありますが、今回の出来事も、この見方と通じるものがありそうです。
駆除されなければ生き残る。当たり前ですが、しかし実際に目撃してみると非凡なことに思えます。

とはいえ、ここで言う強さとは、あくまでも短期的なものです。数百年、数千年スパンで見れば、けして彼らも強い植物とは言えないでしょう。パワーバランスは移り変わるものです。
人間もそんな先にはどうなっているかわかりませんよね。個人的にはアロエの葉肉が好きなので、苦い緑の皮も食べられる技術ができていたら嬉しいです。