光留です。大病院にいます。あれやこれやという間に、いよいよその日がやってこようとしています。次女の人工内耳の埋め込み手術の日です。もうすぐ生後11か月、まずは片耳だけの手術。自分の補聴器を手に入れたのがほんの数ヶ月前(※)であったことを思うと、じつにあっという間でした。

(※)参考までに、補聴器を「つけ始めた」のはもっと早く、今年の3月からでした。国のお金で「自分の」補聴器を買えるのは、障害手帳が交付されてからになるのですが、その前からデモ機を使わせてもらうことができたのです。障害の程度の確定や手帳の交付には時間がかかるので「早く手続きをしないと音を入れてやるのが遅れてしまう」と焦るかもしれませんが、実は、補聴器自体は早くから使えたのでした。これは、個人的に早く知っておきたかったことのひとつです。特にうちの場合、年末年始を挟んだ関係上、そもそも聴覚障害があるかどうかの検査が遅れ気味だったので…。

現時点で多少なりとも残存していた聴力があったとしたら、それはなくなってしまいます」そう言われたときには、心が揺らがなかったわけではありません。けれども、もともとほとんどない聴力が「あるかもしれない」ことに期待するよりは、これからに目を向けていくほうが希望があるというもの。そんな感じです。

もちろん、人間は「聞こえていないといけない」わけではありません。聴覚がない方には特有の文化(があるという考え方)があって、聴覚障害者としては、手話その他を使って生きていくという選択肢もあります。しかし、「多くの研究が示しているのは、2歳以前で音声もしくは手話言語の入力に問題がある場合、言語の熟達にとって一生続く困難が生じてしまい、克服されることはない」(『聴覚障害児の学習と指導』P97)とのこと。残念ながら、ネイティブ手話使用者でもない我々夫婦です。その下で生まれてきた次女に対して、2歳までに可能な限り問題の少ない言語入力を始めてやろうと思ったら、手術しない選択はありませんでした。リミットの年齢がもう10年遅ければどんなに良かったことでしょう。こんな投機的実行みたいな方法を採ることなく、本人にとって生きやすい方を選んでもらえたろうに。そして何より、こんな小さな身体で全身麻酔を受ける必要もなかったろうに。いや、リスクもデメリットも(私達の方で今わかっている限りでは)特に大きな手術ではないようなのですが。

そんな親の思いは伝わっているのでしょうか。次女は今日も補聴器を外し、口に咥えようとしています。最近はちょっと退屈になるとすぐこれです。かまってくれないと、これを口に咥えてやるわよというわけです。私はそのたびに作業の手を止めて、それを制止します。少しでも伝わらないかと、覚えたばかりの拙い手話単語的なものを交えながら…。