昨年誕生した次女ですが、聴覚障害(難聴)でした。

新生児の聴覚スクリーニングが「リファー」となり、病院で検査が続いていたのですが、先日やっとほぼ確定。程度は90db~100dbでおそらく重度、まったく聞こえていないというわけではないものの、耳に接して大声を出せばどうにか聞こえるかどうか、というレベルです。障害者手帳の申請はもう一つ検査が残っているので、等級が明らかになるのはもう少し後になります。

不思議と落ち着いていられたのは、うすうす感づいていたからでしょうか。

早朝や深夜に長女が大泣きする横で、それから年末年始の賑やかな実家・義実家で。次女はいつでもぐっすりと眠っているのでした。これは、肝が据わっているというばかりではなさそうだ。口には出さずとも、そんな予感がしていました。

「まぁ耳なら何とかなるよね、今は文字の情報もたくさんあるし、何より補聴器や人工内耳もあるわけだから」。いよいよ重度らしいと聞いてからもなお、そんなことを考える私。種々の検査の結果を待ちつつ、これからに備えて色々本を読みました。

聴覚障害教育 これまでとこれから』は特に良い本でした。1、2、5、11章を読むだけでもだいぶ違う

しかし、情報を集めてみると、事がそれほど簡単ではなさそうだということがわかってきました。

補聴器でも人工内耳でも、障害のない人と同じレベルに聞こえるようになるわけではないこと。たとえば、重度の難聴なら人工内耳が適応となるのですが、人工内耳を使っても軽度ないし中等度の難聴くらいに改善するにとどまるのだそうです。つまり、聴者(「健常者」と言い換えてもいいのですが、意識的に使わないようにしている)と同じ生活ができるわけではない。

このほか、音がなければ言語習得の初期段階の難易度が跳ね上がること。そこをうまいことクリアできたとしても、生活言語から学習言語に移行する段階でつまづく子供が(聴者よりも)多いこと。言語習得の程度は単純に「会話ができるかどうか」というだけの話にとどまらず、思考様式にまで影響を及ぼしかねないこと。その他、生活面で色々の不便が多いこと。

次女よ、申し訳ない。父は問題を少々甘く見ていたやもしれない。

もっとも、悲観する気持ちはさほど湧いていません。まだ色々の問題が顕在化していないというのもあるかもしれません。しかし何より、障害があることによって確定しているのは不便であって、不幸ではないと思うのです。

聴覚障害は今後、次女の人生のさまざまな場面で制約として立ちはだかってくることでしょう。私たち夫婦がやらねばならぬのは、そのような事態を乗り越え、自立して生活していけるようサポートすることにほかなりません。理解してあげられること、あげられないことは当然出てくるでしょうけれど、配られたカードで戦う術は身につけさせてやりたいものです。

役所の窓口、病院、支援学校と、いくつもの場所を回らねばならず、今後のスケジュールがなかなか明らかにならないのは少々こたえましたが、そのあたりもだんだん整理ができてきました。もうじき補聴器デビューです。完全ではないにしろ音が手に入れば、あとの問題は個別の対策の話になってくるでしょう。そして、個別の問題の対策のヒントは、本に書いてありました(その効果や実践の可否はまた別の問題として)。

そんな次第ですから、問題ありません。次女本人も、最近はよく笑っております。