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4日目、ドイツ(ミュンヘン)から離れて今度はオーストリアのインスブルックへ。移動は飛行機でも良かったのですが、車窓からゆっくりアルプスの風景を眺めながら移動したいということで、あえて鉄道にしました。

 

電車に揺られること2時間、オーストリア第5の都市にしてアルプス最大の古都、インスブルックに到着。ミュンヘンとはまた趣の異なる山の麓の町並みが美しい!

 

 

 

ホテルにチェックインし、10分ほど歩いて旧市街へ。「黄金の小屋根」と呼ばれる金箔貼りの屋根で飾られたランドマーク的な建物が見えてきました。今の時期、「小屋根」の下では、毎夕5時半から6時まで地元の楽団によるクリスマスの賛美歌(?)の生演奏を窓の下から楽しめるそうです。

このインスブルック旧市街でも盛大なクリスマスマーケットが開かれていました。ここで、妻の大学の師匠H先生と合流。欧州通のH先生から、クリスマスマーケットに来たら、これが定番だと進められたホットワイン(グリューワイン)をちびちび飲みながらマーケットを回った後、地元の家族が代々経営するレストランでオーストリアの地元調理を楽しみました。

 

その後、ホテルへ帰ってシャワーを浴びたり、ひとしきり子供と暴れたりした後、自分はガッツリと就寝。その一方で妻は2日後にインスブルック大学で開催される学会での発表に向けて、資料の仕上げとリハーサルを深夜まで入念に続けていたのでした…。妻はフリーランスの中日翻訳者をやりながら大学院博士課程で翻訳学を専攻していて、今回私たちが渡欧した最大の目的がこの学会発表だったのです。

 

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5日目(インスブルック2日目)、妻とH先生はインスブルック大学で行われている別の学会発表を聴きに朝から大学へ。ホテルに残った自分は、「今日、どこに行こうか?」と娘に尋ねると、「今日はずーっとホテルの中でいい」と言われ、やや顔面蒼白…。

 

「せっかくの初オーストリアなのに1日ホテルの中で過ごすのかい…?」 と途方に暮れてかけていると、娘もさすがにホテルに飽きてきたのか、お昼過ぎになってようやく「外に行きたい」と言い出してくれました。ここはスキーリゾートとしても有名らしいのですが、この時間からスキー場まで行けるのかと疑問に思いながらも、Google検索とフロント係の方の説明を頼りにケーブルカー乗り場へGo!

乗り場まで来たものの、どこまでの切符を買ったらよいのかもよくわからないまま、とりあえず一番手前の駅まで切符を買い、いざ山上へ。ところが、ケーブルカーを降りてみると駅の周りにはスキー場らしきものが見当たりません…。どうやら、その駅はスキー場へと続く別のロープウェイへの乗継ぎ駅だったようです。

 

さらに切符を買ってロープウェイで山を登ること15分。今度こそ正真正銘のスキー場が目の前に。スキーをまったくやったことがない娘と、大学時代に華麗なボーゲンしかスキーテクニックを身に付けていなかった父が、道具をレンタルできそうな店も見つからないままスキー場入り口付近をうろうろしていると、Rent 4 Freeと書かれた看板の横に子供用のソリが大量に置かれているのが目に止まりました。すぐにソリを借りて、スキー場内へ突入。

 

さっきまで、「今日はホテルが良い!」と言い張っていた娘が一転して2時間以上もソリ遊びを繰り返してはしゃぐまくる姿を雪の中で煙草をふかしながらじっと見守り続けた父は、その後、休憩所のレストランでビールを片手に至福の遅い昼食を取るのでした。

 

 

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6日目(インスブルック3日目)、妻はいよいよインスブルック大学での学会発表本番。私と娘は朝食後、妻の成功を祈りつつ、午前中はホテルの部屋でまったりと過ごします。日も傾き始めた午後から娘と私は旧市街へ繰り出し(こちらの冬は朝が遅くて、昼が短い!)、夕方には妻、H先生と同流して、妻の学会発表が上手く行ったことを聞いて一安心。4人で祝福の宴へと向かうのでした。

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7日目、インスブルックでの3日間もあっという間に過ぎ去り、いよいよ最後の滞在地であるウィーンへ移動。今回もあえて鉄道の旅です。途中、モーツァルトの生家があるというザルツブルクで途中下車。さすがはクラッシック音楽に疎い私たち一家でさえ知っているモーツァルトの実家、ものすごい人だかりで溢れていました。

再びザルツブルクから電車に揺られて2時間ほど、午後8時過ぎにウィーンへ到着。ミュンヘンで少し慣れていたこともあり、地下鉄を乗り継いで難なくホテルまでたどり着いたまではよかったものの、フロントへ行くと「すみません、部屋がございません…」とのこと…。どうやらオーバーブッキングだったそうで、平謝りのホテルスタッフの皆さんたち。すぐに近くのホテルの部屋を取ってもらい、タクシーを呼んでもらって再度移動。ようやく部屋に入ったときにはもう12時近くになっていたような気がします…。

 

8日目、仮のホテルで朝食を済ませ、ウィーンの町へ繰り出すと、聞きしに勝る芸術の都。どの建物も「嘘でしょ…?」と思うほど凝った装飾で、映画のセットの中に迷い込んだような錯覚を覚えます。

 

 

当然、ウィーンでも町のあちこちでクリスマスマーケットが催されていたので、2日かけてほぼすべてのマーケットを制覇。20分€50也の馬車にも乗り、余勢を駆って子供と○年ぶりに小さなジェットコースターにも乗ってしまいました(クリスマスマーケットでのホットワインが定番となっていた酔いどれの父にとって、あの強制的アップダウンの連続かなり厳しかった…)。その後、夕食を済ませてホテルに戻った後は、ゆっくりと夜を過ごしました。

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9日目、何やかんやでドイツ・オーストリアの旅もいよいよ終わりの時を迎えようとしています。お昼頃にゆっくりとホテルをチェックアウトし、少し町をブラブラしてからウィーン空港へ。カウンターで早めに手続きを済ませて待機。

 

【ウィーン発 > デュッセルドルフ経由 > 成田着】という、人生初のトランジットに少し緊張している中、搭乗ゲートの案内がいつまで経っても掲示板に表示されず、どうなっているのだろうとやきもきしていると、出発時刻直前になって「デュッセルドルフ行き40分遅延」の表示が…。

 

「デュッセルドルフでの乗継ぎ時間が45分しかないのに、ここで40分の遅延じゃ5分で乗り継ぐのかい…?」といきなり半パニック状態に陥ります…。同じ便を待っている周りの乗客を見渡すと、疲れのせいか皆少し不機嫌そうな表情ながらも、空港スタッフに詰め寄ったりすることなく、落ち着いて飛行機の出発を待っています。それを見て、「こういうことは、結構こちらでは当たり前なのかな…?」などと、変な安心感すら覚えたものでした…。

 

結局、予定より1時間近く遅れてウィーンを出発。「乗継ぎ時間までにどうにか間に合ってくれれば」、「成田行きの乗継ぎ便が少しだけ遅れてくれていれば」、と機中で願う中、1時間半ほどでデュッセルドルフに到着。家族全員、乗継ぎゲートへ必死で駆けつけたものの、無情にも出国手続きの係員から「もう行っちゃいました」の一言…。

 

すでに夜9時近くになっていて、ウィーンから乗ってきたオーストリア航空のスタッフもすでにブースから撤収済み。成田行きの便に積み込まれるはずだった荷物がどこに行ったのかもわからない始末です。開いているカウンターのスタッフにあちこち尋ね回って、最終的には空港内の警察に駆け込みます。実に親切なお巡りさんがあちこちに(時にはちょっとオッカナイ感じで…)掛け合ってくれて、最初はあまりちゃんと相手にしてくれなかった遺失物係のスタッフも急に笑顔でスーツケースをあちこち探し回ってくれました。

 

その後、妻が提携航空会社のスタッフと掛け合って翌日の成田便チケットとデュッセルドルフ市内のホテルを確保できたころには、もう夜中の12時を回っていました。とは言え、そのまま空港で不安な一夜を過ごさずに済んだのは不幸中の幸い(空港で駆けずり回っていた数時間は、「もうこのまま帰れないんじゃないか」と不安な気持ちでいっぱいでしたから…)

 

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10日目、本来ならばすでに日本に到着しているはずなのに、なぜかデュッセルドルフで朝を迎えます。一日帰国が遅れる旨を娘の学校にSkypeで連絡し(便利な時代になったものです)、朝食を取って再びデュッセルドルフ空港へ。前日見つからなかったスーツケースも無事に見つかり、今度こそ本当に成田便に乗ることができました。何事も経験とは言いますが、これほど強烈な経験は人生に一度きりにしたいものです(笑)。

 

前日の珍事でやや焦燥気味だった私たちにとって、帰りの12時間のフライトは「本当に日本に帰れるんだ」という喜びをじっくり噛みしめられる幸せな時間だったかもしれません。

 

そんなわけで、予定上10日間、実際上11日間に及んだ私こと、ぽんの初渡欧はめでたく終焉を迎えることができました。まだまだ、書きたいことはあるのですが、キリがないのでまたの機会に書き込ませていただきたいと思います。

(終わり)