[雑記] いわゆる「理系」の人と「文系」の人についての徒然なるままの独り言 (ぽん)

唐突に個人的な話で恐縮ですが、私は大学のときに哲学を専攻していました。

そして在学中や卒業後にさまざま人と出会い、それなりに親しくなって、おたがいにそれぞれのバックグラウンドや現在のことなどを少しずつ打ち明け始めるようになると、だいたいは「ほう、哲学ですか。それは、それは…」や「えーー、なんで哲学ーー??」のような、「微妙」なリアクションに遭遇し続けてきました。

自分自身、なぜあのとき哲学を勉強してみたいと思ったのかと今でもときどき自問するのですが、最近ようやく1つの答えめいたものにたどり着きかけているような気がしてきました。

だいぶ迂遠な説明(?)になりそうですが(結論にたどり着けるのか、あるいはそもそも結論があるのかすらわからないのですが)、最近ぼんやりと考えていることをとりあえず書いてみようと思います。

世の中(日本だけという説もありますが)には、「理系」、「文系」という括りがあり、自分はほぼ中学くらいから文系街道まっしぐらでした。子供のころから、いわゆる理系科目が特に苦手とか嫌いというわけではなかったのですが(高校からは数学の方が私を拒絶していましたが)、もっぱら興味が赴く先は英語や社会科ばかりでした。いわゆる文系科目ですね。ただし、「国語」、特に「古文」は“大”が付くほど嫌いで苦手でした…。

そして、大学に入る前には、高校時代や予備校時代の世界史教師の影響で、「もう大学で学ぶものは歴史、とりわけ世界史以外には考えられない、それ以外の学問など世界史の中の1つの出来事に過ぎないのだから、世界史を学べばすべてがわかる」くらいに洗脳されきっていました(我ながら痛々しい…)。

その後、なんとか大学に潜り込むことができ、これから専攻科を選ぶという段になって(当時のうちの大学は、たぶん文学部だけでしょうが、1年生のときに教養科目+お試しの専門科目をいくつか受けて、2年に上がるときに本人の希望+成績で専攻が決まるシステムでした)、大学でやっているある歴史の授業を聴いたとき、「このまま歴史科に入ってもいいんだろうか」と激しく動揺しました。そこで話されていたのが、19世紀のある数年間にドイツ(だったかどこだったかの国)で起きたいくつかの出来事「だけ」に焦点を当てて、1年間じっくりと講義するという内容だったからです。

私が学びたかったのは高校の世界史をもっと極めた、古代から現代までに至る世界と人類の歩みだったのに、急にマニアックすぎるじゃないか!!!という衝撃に見舞われたことを今でもはっきり覚えています。

注: なお、もしこの記事をお読みになっている方々の中に、大学等で歴史を専攻された方がいらっしゃいましたら、お気を悪くなさらないでください。今はただ単に私の思い描いていた歴史学と大学の授業で実際に(たまたま)聴いた授業内容があまりにも違っていたという個人的な体験をお話しているだけですので。私自身、今でも歴史学そのものの意義とか価値をまったく疑っておりませんし、読書の傾向もずっと歴史と哲学関連の軽い読み物に偏り続けています。

そして1年生の後半、「史学科に進まないのはいいとして、じゃあ何を専攻すればいいのだろう」と途方に暮れていたところ、語学の授業で知り合ったクラスメートの影響もあって(こう書いていて気付いたのですが、自分って本当に人からの影響を受けやすいですね…)、どうやら哲学というやつが高校の世界史と同じように「人類」全体とか「世界」全体とかいった大風呂敷を広げてやっている学問らしいということを知りました。そして、他の選択肢をろくに検討することもなく、事前に哲学科の専門講座をじっくり聴講したりすることもなく、勢いに任せて哲学科を選択してしまっていました。

その後、実際に哲学科に入って講義を受け始めた際には、1年生のときに歴史の講義で受けたものとほぼ同様の衝撃を受けたのですが(当時の哲学科の先生方、すみません…)、結局のところ自分は“大風呂敷を広げた”学問(というか、そのような物の考え方)が好きで、それが合っているんだろうなと最近思い始めるようになりました。

で、ようやく「理系」、「文系」の話に戻りますが、いわゆる「文系」の学問というのは総じて、まず「世界」とか「人間」とか「社会」とか「歴史」とか、目一杯視野を広げたところから考え始めて、その後、個々の事例に自分の考えを当てはめて自説を検証していく学問であるのに対し、「理系」の学問というのは個々の事実をつぶさに観察して、そこから得られる情報を理論にまで体系化していく学問なんじゃないかなあ、などという素人考えに最近至りつつあるわけです。

もちろん、文系でも事実の観察から理論の体系化へと向かう方法や分野(たぶん哲学でいうところの帰納法とか経験論のやり方)もあれば、理系でも理論の体系化から事実への適用へと向かう方法や分野(たぶん演繹法とか合理論のやり方)もたくさんあるはずなので、「理系/文系」という括りで文章を書き始めてしまったのは失敗だったのかな、むしろ「各論/総論」や「スペシャリスト/ジェネラリスト」のような括りで語り始めるべきだったのかな、などと今現在やや焦り始めていますが、気を取り直して、とりあえずもうちょっと書き進めてみようと思います。

と言った矢先から、いきなり話は逸れますが、何人かでふらっと知らない土地に行ったとしたら、そのメンバーは、近くのおすすめスポットが書かれた周辺マップをまず見ないと落ち着かないという人たちと、日本地図などのもっと広い範囲がわかる地図で自分が日本(世界)のどこらへんにいるのかをまず確認しないと落ち着かないという人たちの2つのグループに分かれるのではないかと思います(地図なんかまったく気にせず、気の赴くままにふらふらするという「野生の勘」派の人たちも入れれば3つのグループかもしれませんが)。

前者(周辺マップ派)は、自分の視界に入る範囲のもの、あるいは自分が物理的にアクセス可能な範囲のものに対してまず意識が集中するタイプの人なんだろうと思います。こちらは、事実(Fact)に関心が向くタイプの人と言えるかもしれません。そして、そういうタイプの人が、私の考える「理系」タイプの人なのです(実際にはぜんぜん当たっていないかもしれません)。

他方、後者(日本地図派)は、直接視界に入るものより、そういったものが全体的な(直接的には目に見えず、場合によっては想像上の)枠組みの中でどういう位置付けにあるのかということに対してまず意識が集中するタイプの人なんだと思います。こちらは、事実そのものよりも、その事実が大きい枠組み全体の中で持つ意味(Meaning)とか価値(Value)とか来歴(History)とかコンテクスト(Context)の方に関心が向くタイプの人なのでしょう。

だいぶ強引にまとめに入りますが、これを無理矢理チャート式で並べると、

理系の人 → 周辺マップ派 → Fact好き

∴ 自分の周りにどういうものがあるのか、あるいは自分の目に見えているものがどういうものなのか(どういう仕組みになっているのか)がはっきりわからないと落ち着かない

文系の人 → 日本地図派 → Context好き

∴ 自分がどういう状況や枠組みの中で物を見ているのかがわからないと(あるいは、自分が見ている物が自分の置かれた状況の中でどういう位置付けにあるのかがわからないと) 落ち着かない

と言えるのではないでしょうか。


で、結局何が言いたかったのかをすでに見失ってしまったのですが、私はたぶん基本的に後者なんだろうな、だから哲学(なんか?)に喰いついたんだろうな、というのが最近何となく思い至った結論なのでした。

「だから何?」と言われてしまえば、全くグウの音も出ません。このような取り留めのない独り言をもし最後までお読みくださった方がいらっしゃいましたら、本人ですら何の確証もない憶測と偏見だらけで、私自身のことしか書かれていない駄文に長々とお付き合いさせてしまいまして申し訳ありませんでした。

特に、最後のまとめ部分は、本人でさえ無理矢理のこじつけ感をまったく払拭できておりませんので、ご批判は甘んじてお受けする所存です。

いずれにしましても、もし途中まででも読んでくださった方がいらっしゃいましたら、ご精読ありがとうございました。